零和ゲーム 



 この曜日のこの時間、紫苑はいつも図書室の窓際で本を読んでいる。
 そういう時は、私が隣に座っても決して本から顔を上げようとはしない。
 集中していて本当に気付かないこともあるが、今日は違った。私がいることに気付いていながら、敢えて無視している。
 どうやらいささかご機嫌斜めらしい。……心当たりならありすぎるほどあるのだけど。
 紫苑は相変わらず私を無視したまま頁をめくっている。横から一緒に中を覗いてみたが、小さな文字がびっしりと書かれたそのページには綺麗な挿絵の一つもついていない。
 何が面白いのか私にはまるで分からないが、紫苑はその中に何かを見つけ出せるようで度々それに夢中になっている。
 初めは私も紫苑のそういうところに興味を持ったのだが、こうして素気無い態度をとられるとその書物が少し疎ましい。
 しばらくの間は紫苑が本を閉じるのを待ってみたが、すぐに飽きてしまった。こうした根競べは得意ではない。
 私は彼女の背中に流れる長い黒髪を一房つまみ、指先でそのさらさらとした感触をもてあそぶことにした。
「邪魔をしないで、蔓薔薇」
 ようやく反応があったが、視線は相変わらず本の頁から外れていない。紫苑の声は小さくとも、静かな図書室に思いのほかよく響いた。
「あれ、気付いた? あまり引っ張らないようにしたんだけど」
「気付くに決まってるでしょ」
 紫苑が呆れたように視線を上げる。ここに来て初めて自分を見てくれたことに、私は内心で満足を覚える。
 だが紫苑の表情は、私を見て一層不機嫌そうに歪んだ。
「蔓薔薇、頭」
 そう言って、頭頂部の辺りを指で示す。
「何? 今度は撫でて欲しい?」
「莫迦。貴女の髪に何か付いているのよ」
 私は言われるままに自分の頭に手をやる。かさりと音を立てて、軽い何かが触れた。
「わあ!? 何、なに!?」
「そんなに騒がないの。ただの葉でしょう」
「ああ、そうか」
 つまみ上げて目の前に持って来れば、それはぎざぎざとした形の一枚の青い葉だった。
「ありゃ」
「中庭で寝たりするからそんなことになるのよ」
 紫苑が、手にした本に視線を戻して冷たく言い放つ。それを聞いて、私は手にした葉を床に放った。
「ちょっと、そんなところに捨てないできちんと――」
「私が中庭にいたの、知ってたんだ?」
 紫苑は黙りこむ。
 今日ここに来る前、私は中庭でほかの少女とかなり親密な戯れ方をしていた。親密といっても服の上からだし、許される範囲だろう。……私の希望的観測だが。
 図書室から中庭がよく見えることは知っていた。咎められるべきは、知っていてわざとそんな真似をした私自身だ。
 だがこれで、今日の紫苑の不機嫌の理由がはっきりと分かった。
「妬いてくれないの?」
「どうして貴女に妬く必要があるの」
 不機嫌になるくせに、紫苑はそれを直接咎めることは決してない。
「それよりあんな場所であんなことをするのは止めておいた方がいいわ。人に見つかるって分かったら、あの子がかわいそう」
「もうしないよ。あの子も一度だけでいいからって言ってたし」
「……蔓薔薇は冷たいのね」
 そう言う紫苑の声こそが酷く冷たい。
「だって私、特定の相手がいないから断りきれないんだもん」
 私自身束縛を望むわけではないが、紫苑が私を欲しがらないおかげで私の方まで彼女を手に入れ損ねている。
 互いに束縛の権利を交換するのなら、悪い取引ではないと思うのに。
「なら、さっさと特定の相手を見つけなさいよ」
「分かった。紫苑」
「何」
「特定の相手になって」
 紫苑は私の言葉に、ふうっと細いため息をついた。
「それを言うのは私で何人目?」
「紫苑が初めて」
「そう。貴女って手が早い上に嘘吐きなのね」
 本当なのに。
 向こうから自主的に私のものになってくれた子のことは、勿論カウントしていないけど。
 私は諦めて、再び紫苑の髪を手に取り玩びはじめた。
「ねえ蔓薔薇、そんなことして楽しいの?」
「とても楽しい」
 私が真顔で強く頷くと、紫苑は肩を竦めた。
「気が知れないわ」
 そう言って再び本の頁をめくり始める。
「本当に楽しいのになあ」
「そんなに触りたいのだったら、御自分のその素敵な亜麻色の髪を触れば良いじゃない」
「まあ! 紫苑さんにお褒めいただいて光栄だわ」
 私は芝居がかって答えながら、自分の肩までの長さの髪を摘まんだ。
 触り心地の滑らかさだけで言うなら、確かに私たちに大差はないだろう。ノースポールの少女たちは、全員支給品の同じ洗髪料シャンプーを使っている。
「でも駄目だよ。紫苑のがいい」
「どうして私の――」
 そう問いかけて、紫苑が口を噤む。自分が余計なことを尋ねたと気付いたらしい。
 残念だが、彼女のその予想は正解だ。私は猫のように目を細めて微笑んだ。
「だって紫苑の髪を撫でると、とっても可愛い顔をしてくれるから」
「……貴女やっぱり嘘吐きだわ」
 だが拗ねたように言う彼女の顔は微かな羞恥に染まり、私の言葉の正しさをはっきりと証明してくれていた。






08/12/23(08/04/21初出)




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